世界の神聖といわれる場所

世界中の何かひとつにでも神聖さを感じることができるのではれば、その神聖さがすべての人の内側にあることはいづれ理解されるだろう。すべての人の内側にあるその神聖さを敬うことができたら世界は変わるだろう。たとえ今その神聖さがすべての中にはっきりと見えなくてもあると信頼して敬ってみるとやはり同じことが起こる。それが真実だからだ。

神聖さを愛と置き換えても同じことが言える。

私たち人間はこの真実を人生を通して学んでいるのだと思うのだが、言葉で言うこの3行余りの真実に私たちはなかなか気づくことができない。一人の人生全部を費やしたとしてもこの真実を生きるにはなかなか至らない。それで幾世にもわたって私たちは魂の旅を続けていると考えられている。

この言葉はまったく逆さの真実も含んでいる。世界中の神聖さを敬ったところで、自己の内に神聖さを見つけられないならその神聖さと敬いはまやかしにすぎない。世界は神聖さと醜さ、神聖さと闇、神聖さと愚かさでいつも分離しその分離という地獄から私たちは逃れることはできない。

あそこにあってここにはない。誰かにあって他者にはない。他者にはあって自分にないのであれば、私たちはどこまで行っても満ち足りることはないだろう。けれど、自分の中の神聖さを見つけたとき、それは自分だけのものではないといづれわかる。その神聖さの本質が巨大で無限でどこまでもひとつなるものだという体験をし続けることになるからだ。

世界を平和から遠ざけるものの正体はさほど難しいものではないということが最近よくわかる。それはいかなる動機かられあれ「他者と自分は違っているという意識」だ。エゴにフォーカスをすればすべてはみな違っている。しかしそのエゴの衣の奥にある神聖さを見つけたときその幻想は終わる。

あれが悪いこれが間違いだというのは善意であれ悪意からであれ結局は世界を分離させる。私たちは常に鏡を見せられている。内面のエゴの領域を世界という鏡に映して。その鏡から自ら進んで自己の目隠しをとることを学ばないうちはそのレッスンは続く。そこから学ぶことは他でもない、この間違いだらけに見える世界と自己のその内にこそ、もっとも神聖なものが横たわるという真実だ。

自己を愛し尊ぶことを知っている人は、他者と世界を同時に愛し尊ぶようになる。そこには平和がある。

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