瞑想の成果

知性に満ち溢れる人々にとって「成果を求めずに行う」ことほど難しいことはないのではないでしょうか。まして、即効性や白黒の判断に慣れきっている私たちは、成果が現れないこと=失敗・間違い・不行き届き、という風に理解します。

そんな価値観が風潮として横行する中で、唯一、愛(神のある側面)というものだけがその法則を超越しているように思います。

瞑想とは内なる神への礼拝ですので、物理の法則をやはり超越しています。ですからその目標に物理法則上の成果というものを掲げると、多くの方が困惑されると思います。それはまるで、別の次元にあるものを掴もうとしているようなものです。自分のいる場所が理解できていないのです。そこでやり方が間違っている、もっと効くやり方があるはず、私には効かない、などという判断を下したくなるのですが、もし間違いというものがあるのならば、それはその人の世界の捉え方です。

また内面が変化していても、外側の成果ばかりに視線を向けている時には変化に気づくことができません。その変化は、愛(神のある側面)へ近づく、よりそう、ひとつになる、というような変化であって、生活を便利にしたりより稼げる能力を向上させる目的とは違います。(結果として生活は便利になり、より能力が向上し、豊かになることは起こりうるのですが、それらは副産物と言えます。)

内面の修練や幸せへの道には瞑想が不可欠です。私は人生の目的はそれぞれが幸せになることだと思っています。そうすると、幸せの形は人それぞれ違うから、そのための方法も違うと考える人がいます。ですが幸せは、そもそも形ではありません。すると今度は、感じ方は人様々だから、これが幸せだとは言えない、という考えが出てくるかもしれません。ですが、ここで言う幸せというのは、状況や状態によって左右されるようなものではない、ということです。上の二つの考えはどちらも、欲求、つまりこれが欠けている、足りてない、という認識があって、それを満たすときに起こる現象です。「得た」という感覚です。そのような一時的な満足というのは、確かにニーズによって形も感じ方も様々で、それらは移ろっていくものです。幸せと言うのは、満ちていることを知ることです。何によって満ちているかというと、愛(神のある側面)によってです。

私たちは愛という言葉さえ誤解することが得意です。愛は得るもの、とか逆に与えるもの、という風に、頭だけで無意識で捉えていることが多いのですが、本当は無限に満ちているものです。その無限という高い次元の法則にのっとって私たちが生きることを選択することで私たちは高次元を生きることができます。

この次元の違いというのはとても微妙なものですので、私たちは人間の思考やエゴ(肉体意識)、物理次元の特性を熟知していないと、簡単に次元間を滑り落ちてしまいます。しっかりと愛という意識の次元の住人となって腰を据えて生きるには、自己の取り扱いを熟知することや叡智を理解し鍛錬することがとても大切です。つまりそうあるためには自己をとことん愛することが何よりの近道なのです。熟知し理解し鍛錬するには自己を愛していなければおつきあいすることさえままならないからです。

肉体意識を熟知していないうちは、肉体意識のほうがリアル(真実)だという風に意識は捉えています。これは痛い、これは嫌い、これは好き、これは自分にとって良い、これは社会にとって悪い、これはみんなにとって良い、などという風に。それらは五官をと通して感知され五感の感覚として記憶された、過去の学習から来ている予測に過ぎません。叡智というのはこういった枠を超えて悠久の真実を湛えているものであり、私たちがよく言う直観、直覚というものはその叡智からもたらされるインスピレーションです。ですがほとんどの場合、五感の感覚と混同されています。

チャネリングといわれているものは、私たちが個の五感から来る感覚を静め、手放して叡智を受け取るものですが、この五感からくる記憶の解体、浄化が進んでいないと、非常に偏ったフィルターを通して情報を翻訳することになるのです。つまり、瞑想に熟練していない人がメッセージを解釈することはとても難しく、ほとんど不可能だと言えます。

五感の感覚を手放すというのは、エゴを解体すること、思い込みを手放すこと、意識を浄化することなどと同じことです。またそのために過去のトラウマを癒すことも同じことへと繋がっています。トラウマがあると人間は恐れが強く、そのときにはエゴを握り締める力が強くなります。痛い時人は、より防御しようとしますよね。そうしてエゴ(肉体意識)がこれ以上傷つかないように守ろうという意図が働くのです。幼いときにはこれが無自覚なうちに働き身についていますので後からの解体が難しくなります。潜在意識下でのワークなしに手放すことは困難です。エゴとは利己心とは限らないのです。ただ、自分という存在を守ろうという意識こそがエゴの働きなのです。そういう意味では、幼い頃、若い時分のほうが「生き残らなくては」という意識が強いので、エゴの力も頑強なことが多いかもしれません。

こういったエゴの仕組み一つとっても、頭だけ、思考だけで理解しようとすると、五官から得た情報、つまり知識に照らして整合するものを真実と捉えてしまうので本当のことは理解できません。叡智からくる直覚が必要です。瞑想とはその無限の源に私たちをつなげてくれるものです。

ヨガナンダは瞑想するとき、神への愛を伝えなさいと言っています。私はそうしています。そうして本気で神を愛するとき、愛(神のある側面)に少しずつにじり寄ることができます。神の愛と私たちの愛を隔てている堤防が少しずつ削れていき、あるとき怒涛のように愛が流れ込み、溶け合い、ひとつになる喜びを感じることができます。

それは成果ではなく、成果を要求しないひたむきな姿勢である時、そもそもそこに降り注いでいた光を感じることができるというようなものです。

恐れと上手につきあう

恐れているものと向き合えだなんて、これ以上無理なこと言わないでくれよ!と、以前の私なら思ったことでしょう。私は人百倍恐がりなので、そいういうやり方はごめんだ、と思っていました。とにかく優しくて恐くないのが好きです。そんな私が言っているので、このやり方は実はすごーく優しいやり方なんだと思っていただけるとさいわいです。

恐れとはいのちの存続の危機を回避するために人間が持ち合わせた本能から来ています。ですが人間の持つユニークな才能である「想像力」ゆえに、私たちは常に起こっていない未来を恐れるという反応のパターンを作り出しました。過去の経験で抱いた恐怖が、似たような類の出来事によって刺激されるたびに蘇ります。「また、あれが来るぞ」という警戒体制になるのです。

でも実際に起こっているのはただ起こっていることであって、それが恐れに値するものだとは限りません。過去に体験したときには恐ろしいものであっても、今の自分にはすでに経験や知恵や許容力も養われているので「今度は大丈夫だ」というのが概ね真実です。ですが「もうあんな思いしたくない」というような記憶が幼少期に作られていると、その印象が強烈過ぎて、実際の出来事に増幅された印象がくっついているので心は大げさに恐がってしまいます。これがインナーチャイルド、潜在意識の仕組みの重大なポイントとなります。

ここで、恐いから目先の恐怖の対象から遠ざかろうとしたり、これ以上感じるのをやめようとするのが通常の反応ですが、実際に恐れさせている要因は過去の記憶ですから、そのやり方では恐れを止めることができません。この時点ですでに戦う相手を間違えているので内面はますます混乱してしまいます。

さて、ようやくこれで前回ご紹介した「感じきってみる」ことが有効と言えます。恐れを感じきることとは、嫌なことに体当たりすることでも、恐怖を味わいきって慣れることでもありません。その恐怖は実は実態がない、幻想だということをはっきりとわかりましょう、ということなのです。もしもそこに恐れるべきものが実際にあるのであればなおさら、恐れによって縮こまることは望ましくありません。適切な対応を選択しづらくさせてしまうからです。いづれにしても、恐れたままとどまっていることは前進を妨げ人生を不自然に固めてしまいます。

実際に起こっていることを受け入れることは、恐れを想像し続けることよりもずっと優しい。ね、私はいつでも優しいほうの道を選びたいのです。

その心の後ろを観る

心の優しい、きれいな人が苦しんでることに、こんなのがあります。「私はこんな風に感じてしまうんです。」(だから、自分は汚い、ネガティブ、弱い、だめ、etc….)その心の後ろにある欲求は、『いつかこんな自分が消えてほしい。こういう自分に早くいなくなってほしい。』つまりそんな自分を愛せない、という気持ちの表れなのです。

そういう意識を抱えていると周囲の視線をまるで敵のように感じるはずです。その感覚の後ろにある欲求は、『こんな自分を見られたくない。周囲にばれないといいな。』それで何気ない人間関係の中ではほとんど無意識に自分を隠そうとする意志が働きます。ある程度距離のある関係だとその意志は通すことができますが、距離が近いあいだがらではそれはとても困難になります。家族とか、恋人とか。

または逆に、家族の間ではそのバリアがまかり通っても、仕事という重責がかかると隠すことにエネルギーを使っていれば仕事へのエネルギーが不足しますし仕事にエネルギーをとられると隠すことに疲れてしまい、バランスは破綻してしまいます。こうなってくると、健やかに仕事をすることが難しくなります。

うまくいかないときに人間は理由を探します。仕事が合っていないのかな、もっと別の道があるのかもしれない。誰かのなにかが悪いから。自分になにかが欠けているのかもしれない。病気かもしれない。どれを採用したとしても多分苦しみは変わりません。

理由を探そうとしているとき人間は思考を駆使していますが、そのときにしているのは本当は気づきたくないこと、感じたくないことを覆い隠すために別の理由をみつけようとしているようなものです。

ではどうすればいいのかというと自分の感じていることを、しっかりと感じてみるといいのです。そんなの感じているよと思われるかもしれませんが、やな感じ、と判断した瞬間から人間は心を閉じます。ですから、そのカーテンの向こうにちらっとなんか見たくないものがあった、という程度の認識しかしていないのが通常です。そうではなくて、そのカーテンを開けてみるて、ちゃんとその奥にあるものと出会ってみるのです。

本当の原因はお分かりのとおり自分の中のある部分、ある記憶、感覚を嫌がっていて愛せていない、つまり、受け入れられない、理解できない、向き合えない、無視した状態なのですが、それが原因だと「考えて」も、心は変わりません。

でも、そのいやなフィーリングをしっかり感じてみると、その奥にある「本当の欲求」に気づけるようになります。本当の欲求は、表面的なフィーリングの後ろに隠れていることが多いので、その表面的なフィーリングから逃げてしまうと捉えることができません。すると本当の自分がわからない状態になります。

本当の欲求がわかれば、それを「採用」することも「却下」することも可能になります。そこには自己という主体があり、苦しみは必要ありません。

表面的なフィーリングのレッテルだけを見ていると「こんな汚いものが私なんだ、がっかり」と言っている状態が続いてしまうので自分との愛は育めません。

自分を愛することを始めるかどうか。苦しみから自由になる道はそこからしか始まりません。どんなに多くを学んでいるつもりでも、知っていてもわかっていても、それを実際にしなければ変わることはありません。でも、始めるだけで、世界は変わります。そうしたら一歩一歩踏みしめながら、新しい世界にしっかりと根を降ろすだけなのです。