迷妄を斬る

痛み、苦しみ、という感覚を実際に感じているとき
それは幻想ですよ、と言われても信じることは難しい。
痛いとまで言わなくても
心や頭にもやもやを感じたり、重たいと感じることは
ほとんどの人が体験していると思う。 
 
それが「あなたの考えからきている」
つまり原因はあなたの思考を信じることで起こっていますと言われたら
多くの人はかちんとくるとか心をぎゅっと閉ざすとか、
つまり防衛的な反応を示すだろう。
この防衛的な反応は何かを恐れる時に起こる。
動物的な本能の反応で
敵が来た、という認識だ。
自己を守らなければ危害を被るぞ、という警笛だ。
幼少のころに周囲から傷つけられたり
思うようにならないことから恐れを感じたり(思うようにならないのが普通だ)した記憶から
人間は自己を守ろうとして
いろいろな防御の仕方を身につける。
幼少のトラウマというけれど
トラウマ自体というよりも
そのトラウマに対する自己防衛の方法が無意識に習慣化して身についていることが
実は心を苦しめたり何か見えない枷となって
自由になることを妨げ
同じ過ちを繰り返させたり堂々巡りのジレンマにはめている。
出来事に対する反応や対処法が習慣化されているので
同じような道順をたどったり同様の結果を導き出すのだが
その時人はさらに恐怖を感じる。
努力しているし毎回理論的に冷静に考えているはずなのに
どうしても思わしい結果へといたらない。
その努力が自分を幸せな結末へと導いてくれないと感じる。
あまりにそういうことが続くと
私は不幸の星の元に生まれたんだ、とか
のろわれているんじゃないか、とか
悪霊のせいじゃないか、とか
前世でよほど悪いことをした罰じゃないか、とか
神さまに見捨てられたんじゃないか、とかいう風に感じるかもしれない。
(私はすべて感じたことがあります)
つまり、自分より強い何かが自分をコントロールしていて
自分ではどうにもならないに違いない、と考えているわけです。
多くの人が恐れや痛みを感じた時に
瞬時にその理由(ストーリー)を考えます。
まじめで平和的な解決を望む人ほどその傾向が強いのですが
その理由探しの追求は留まるところを知りません。
そして自分がこうなっていることを納得するために
あらゆる知識を使ってそのストーリを膨らませます。
私は過去世セラピーを行っていますが
それを希望して来られる方の中にも
今の私がこうなっている(苦しんでいる・葛藤している・思うようにならない・
夫を愛せない・子供を愛せない・自己実現できない・親とうまくいかない・
対人関係がうまく行かない・人に心を開けない・恋愛ができない・続かない・結婚できない・
結婚したのにしあわせでない・天職・使命がみつからない)のは
前世で決められた何かがそうさせているに違いないから
あるいは前世の記憶が思い出せないためだから
それを知りたいとおっしゃる方がみえます。
例えば、自分の夫がソウルメイトじゃないから
自分は幸せになれないのでは?
私はこんな生活の中で苦しんでいないで
ソウルメイトを探すべきなのでは?というような期待を持って。
だけど、その考えは見当違いだと言わざるをえません。
そんなシンデレラ的ストーリーを信じて行わなくても
あなたは幸せになれるし
その考えを信じることがあなたを不安にさせ、
あるいは不幸だと思い込ませているとも言える。
話が前世に及ばなくても
例えばスーパーのレジで無愛想にされて気分が悪ければ
今日はついていないとか
これは私への罰だとか警告だとか何かの前兆だとかのストーリーを作る。
不当な扱いを受けたことへの冷静な苦情を考えるかもしれないし
非難されたように罪悪感を感じてさらに理不尽な怒りを増幅させるかもしれない。
この物理次元の世の出来事は因果律(原因と結果の法則)が原理なので
もちろん今すべてがこうであるには原因がありますが
私たちのたったいくばくかのストーリーなんかでは説明がつかないほど
あらゆる因を持って果をなしています。
ですがその法則は私たちがあたまで作り上げるストーリーよりも
ずっと科学的というか数学的というか、シンプルです。
化学反応みたいなものです。
とにかく今、ここ、これが、結果としての現象です。
感覚の生き物である私たちは
そのシンプルな現象に対して快・不快を分け、敵・味方を分け
そこに良し悪しの評価を下し、さらにその正当な理由をくっつけます。
今ちまたで流行っているスピ、とか引き寄せ、というやつの中の
ポジティブ信仰もこの領域を出ていないものがほとんどではないかと感じています。
実際はこの世にあるものの一側面をポジティブと呼び
そのうらっかわにある部分をネガティブと呼んでいるだけです。
もとは一個の個体を二極に分けて対照的に分析しているだけなので
そのどちらも単なる特性です。
それをさらにある視点から見れば好都合で、ある側面から不都合だということ。
人間が成熟した見識を持つには
この両面もしくは全体性を率直に見ることができる必要があります。
ポジティブ信仰も本来は通過儀礼に過ぎないものです。
人間は感情や思考を持ちながら
長いことサバイバルの歴史を歩んできた悲しい動物であるがゆえに
私たちの記憶の中ではネガティブと言われるような痛みのほうがとてもリアルです。
それでバランスするためにはポジティブなほうにフォーカスしてみるのは
一つの方法だと思います。
でも、それはバランスするための一つの方法です。
ああ、いい側面もあるじゃない、というだけのことです。
だからと言って、好ましい側面だけを求めるのは執着であり苦しみをもたらす行為です。
でも両側面、あるいは全体像が見え始めると
これまでこわいと思い込んでいたこと、不快で望ましくないと思い込んでいたことが
単なる自分の中の信念だったということがわかり始めます。
つまり投影です。
その投影にはそれを映し出すための映写機があり
その映写機から出ているのはすべて光なのです。
その映写機は、私たちの内側にあり、外にあるのはスクリーンだけです。
スクリーンに映る幻影をに気をとられていると
まるでそこに、光と闇が実在しているように見えます。
陰影によって像が映し出されているから当然そう見えますし
そのスクリーンでは終始、あなたの頭が作り出したストーリーが
上映されているという仕組みです。
そのスクリーンの幻影を見て一喜一憂したり
評価したり
それを見て苦しみや痛みを感じたり
光と闇が存在していたり
正義と悪が出てきたり
それと戦っている気になったり
私たちはしてます。
でもそんなことをしても真実には出会えませんし
平安になれるはずもありません。
写し出されるストーリーを変えたいなら
映写機のほうに戻って、つまり意識の内面に戻って
フィルムを取り替えたり
あるいは実在はその光だけなのだということを理解する必要があります。
ポジティブ信仰している人の多くは
そのスクリーンの幻影を見て、
いつかこれが光だけになるのだと思い込もうとしているけれど
その時にはそのストーリーは映し出されることはなくなります。
真っ白、以上です。
そんなことを待つことなく
映写機のことを思い出すことが
愛の天国に還るということです。
愛の天国に戻り、そこから自在に美しい幻影を映せばいい。
それにはレンズの曇りを除くことです。思い込みという曇りを。
思い込みのストーリーの中から自分で出ると決めると
私たちはすぐにそこから出ることができます。
それには理由は要りません。
でもそのストーリーはあまりにリアルで
またどうしてもそこから逃げるなんて不可能だと私たちに思わせます。
でも逃げるわけではないのです。
ただ、真実を理解し気づくだけでいいのです。
真実に気づくと、人はそれ以下の嘘にはもう魅力を感じなくなるものです。

探すのをやめたとき愛は見つかる・再び

今日はこれ
ザ・ワーク 人生を変える4つの質問 / 原タイトル:LOVING WHAT IS (単行本・ムック) / バイロン・ケイティ/著 スティーヴン・ミッチェル/著 ティム・マクリーン/監訳 高岡よし子/監訳 神田房枝/訳
をご紹介します。
少し前に探すのをやめたとき愛は見つかる
をご紹介したのですが
同じ著者の同じワークについての本です。
このワークをちゃんと自分のこととして行うと
こころと頭のおしゃべりをきちんと整理整頓できて
愛の天国に戻ることができます。
そんな簡単に?と思われるかもしれませんが本当です。
このワークが機能しない場合は
その人はこう思っているかもしれません。
この痛みの原因は自分以外の何かにあるはず。
こんな苦しみをそう簡単に片付けられては困る。
私のアイデンティティが無意味になってしまうから。
みんなの不幸はそうかもしれないけれど
私の場合は当てはまらない。
もっと深い理由があってこうなっているに違いない。
だから解決法ももっと難しくなくてはならない。
痛みが現にあるというのに消えるはずがない。…
もしそういう考えが浮かんだとしたら
やはりこのワークは有効です。
その思い込みをちょっと脇に置いて、
あるいはその考え自体をワークしてみればいいだけのことですから。

人間万事塞翁が馬

昔の人の言い伝えには
迷信もあれば多くの真実を含むものがある。
「類は友を呼ぶ」は宇宙の波長の法則を物語っている。
嘘も方便、というのはなんともいい加減な言い分みたいだけれど
神そのものは人間の言葉で表現できるものではないので
神の御心をあらわした言葉はすべて方便みたいなものだ。
だから嘘も方便というよりは方便はある意味みんな嘘、虚みたいなものだ。
方便(たとえ)を鵜呑みにしてしまうと
虚を現実、真実だと思い込むような間違いが起こる。
私たちは本当は方便の中からその意図を、
そこに含まれる真実を見つけて受け取らなくてはならない。
アセンションありきみたいなニューエイジ思想のストーリーを信奉している人の中には
この、方便を鵜呑みにしている人が見受けられるように思う。
「バシャール」とか「プレアデスかく語りき」みたいな本を読んだ世代の人が
(私もそう)
今度は自分もチャネリングできたと言って
尾ひれがついたみたいなメッセージを発信している。
メッセージそのものは一見きれいで害がないように見えるんだけど
深みや現実味に欠けるメッセージには落とし穴があることが多い。
(たとえ落とし穴がなくてもどんな言葉でも鵜呑みにしてはいけないと思うけれど。)
別に金儲けだとか利己主義のためには見えないけれど(善意が多いと思います)
地に足が着いていなくて、軽率だったり安易さが見受けられることがある。
言葉ではつじつまが合っているけれど
究極的に真理と矛盾があるのでそう感じられるのだ。
愛と平和とポジティブが好きで
「否定」と「ジャッジメント」と「ネガティブ」を嫌っていて
自分は光のチームに属していると自己認識しているように見える。
それで全世界がポジティブになることを目指しているみたいだけど
それが現実的にどのような状態のことなのかはあまり知らないようだ。
そういう彼らの言動を見ていると
彼らこそがきれいか汚いか(光か闇か)で世の中を分けていて
汚いものを非常に否定していて
否定されることを極度に恐れているのがよくわかる。
でもあまりにも当たり前で申し訳ないけど
大切なものはそこにはない。
大切なのは、自己の恐れを克服し
恐れからくる分離を超えてひとつへと繋がることだ。
そのひとつとは外側には存在していない。
外側はないのだ。
画期的でイージーでかっこいい方法を求めてしまうのが人情だけど
その方法は概ね限られている。
すごくめんどくさい地味なことにこつこつ取り組むしかないのだ。
それは心の内側へ入っていき
潜在意識をお掃除し、心身を再教化(訓練)し
風通し光通しのいい内面に変えて
内なる光を招き入れるということだ。
そうなるとどうなるのかというと、
ストーリーが必要なくなる。
世界をポジティブとネガティブに分けて戦う必要がなくなる。
つまりあるがまま、起こることをそのまま受け入れることができるようになるだけ。
そして内面の光をあるがままに放射するだけ。
そうなれば予知や予言はいらなくなるし
透視もチャネリングも宇宙との交信もいらない。
できてしまうかもしれないけれど。
それでも昨今、何万年かかって人がしてきたであろう意識の進化が
飛躍的に進むようになっている。
それこそアセンションといえる現象なのではないかと思う。
だから、私はアセンションを肯定する。
ただしそれは人間が期待したり推測するものとは違うかもね、と思う。
この世の現象は、何が幸いするか、
人間の五官から来る知覚にはなかなかわからない。
東日本で放射能を憂いていても
明日西日本がどうなるかはわからない。
先を予知予見して動いたつもりでもあだになることもある。
ですから人間は端的にも究極的にも、恐れを克服する必要があり
その隔たりを超えて
そこに広がる海原こそが愛という宇宙であり
私たちが向かうべき、還るべき天国はそこなのだと思うのです。

芸術の秋

書きたいことはたくさんあるのですが
今日はバナナマンのことを書きます。
うちにはテレビがなく私はテレビをまったく見ないのですが
見たい映像はYouTubeなどで見ます。
で、バナナマンのライブが大好きです。
以前バナナマンが好きだと書いたとき
「(バナナマンとは)意外ですね」というコメントをいただいて
しばらくどうしてなんだろうと不思議に思っていたのですが
きっとそう思われた方は
テレビでしかバナナマンをご覧になっていないのでは、と推測しました。
テレビでのバナナマンは確かに
きたない顔が売りの人とちょっと押し出しの弱いハンサムな相方、みたいに見えます。
私はライブの映像でバナナマンを知ったので
本当にそれは衝撃と感動でした。
私は以前小劇場の芝居をやっていた演劇人だったのですが
バナナマンのライブを見ていると
笑いはもちろんですが
その他のさまざまーな感覚を呼び起こされます。
二人ともほんとーぉにすごい人だなぁと思うのですが
まず不細工芸人と呼ばれている日村さんの演技やしぐさを見ていると
昔劇団で一緒に芝居をしていた先輩とイメージがかぶります。
玉川大学の先輩で劇団の舞台で共演していた「ちんさん」とすごく似ています。
おなかの感じと足のきれいさも似ています。
不細工と言われながら
日村さんは舞台での立ち姿がとてもきれいです。
動きにも無駄がなくしなやかで自由自在で本当に美しい立ち振る舞いです。
ちんさんもそうでした。
稽古場では私たちはちんさんの出番が楽しみで
みんなくいついて見ていました。
ちんさんに限らず
私のいた劇団の稽古は本当に面白くて
失礼なのですが、よその劇団での稽古場は面白くなくてびっくりしていたものです。
芝居の稽古は練習ではなく創造の場なのです。
すべてが新鮮で驚きに満ちているのが本来の姿です。
日村さんの演技は本当に驚きの連続です。
このセリフをこのトーンと動きで出してくるんだ、
この人ん中、いったいどうなってるんだ、という感じです。
ちんさんは後に舞台の裏方を本職にされたのですが
日村さんを見ているとちんさんが芝居を続けていたら…と想像させてくれます。
相方の設楽さんは、恐るべき人だと思います。
芝居でいうと脚本、演出、主演を一人でしてしまうような人です。
ライブの映像を見始めて驚いたのですが
1本が30分くらいあるコントがざらです。
それで、間とか演技はコントじゃなくて芝居です。
あまりにリアルなので笑っちゃう、という感じで
上質な二人芝居のような厚みがあります。
デビュー当時から毎年単独ライブを続けている彼らですが
(毎年あれだけの舞台を一から作るだけでも相当なことなのに)
年を重ねる毎に深みも切れも円熟味も増していて本当に感心させられます。
意識の高さと芸の鍛錬、生き方、姿勢、人柄がにじみ出ていて
映像へのコメントも「愛を感じる」と書かれる人が多いのです。
私は玉川大で芝居を始めたころ実習公演の稽古中に先輩が
「芝居は愛だ」と言ったのが強く心に残って今に影響しています。
人生は芝居、この世は舞台という言葉がありますが
これはこの宇宙の仕組みを物語っています。
だとすれば「芝居は愛」は真実です。
バナナマンのコントも然り。
設楽さんはトークではだらっとしていてドSキャラなのですが
ものすごく細密にバランスの取れた人で
なおかつ精神力のずば抜けた強さを持った人だと感じます。
こういう人はいそうでなかなかいない。
そのバランスの良さが
テレビ的にはやや中途半端なキャラに映るところが
タレントの端くれだった私にはよくわかります。
それでも芸能界でちゃんと売れて生き残っているところが
彼の精神力と粘り強さを物語っていると思います。
微細なセンスと繊細な才能にあふれ、それを統合して開花させるというのは
あのあらぶる世界では本当に奇跡のように難しいことだと思うのです。
それから私個人の感覚として
彼らの品の良さ、育ちの良さ、のようなところも好きです。
がつがつしていなくて、落ち着きがあって、言葉遣いも本来はきっちりきれいで
勇気があって、礼儀やあいさつがしっかりしているのが
よく見ているとわかります。
そういった在り方が
彼らのスタンスを作り上げているように見えます。
笑われているのと笑わせることの違いをわきまえ
笑わせるためだけに何かをやる、のではなく
自分たちが面白いと感じることを
呼吸するようにいつも探求し
それを舞台上にぶれることなく立ち上げています。
なんだか、彼らを見ていると、
これは本当にものすごいことをやらかしているんじゃないかと思えてなりません。
今気づいたのですが
あの奇跡は愛あってこそ生まれるものなのですね。
テレビ業界での攻防の中では表現しえない感動があるのはそのためなんだな。
これから彼らはどうなってっちゃうのかなと想像すると
ちょっとこわいくらいです。
かなり過酷なことを精神力でやり通しているのを感じますので
進化のためには抜いたりはしょったりいろいろ変化していかなければ
このクオリティは続かないだろうな、とか
余計なことを考えたりします。
持ち前の聡明さと円熟したしなやかさを進化させて
常に勇気を持って新しい境地へと飛び込み躍進してほしいなと思います。
その姿は私たちの生きるという創造のお手本にもなってくれると思います。
日村さんの自己管理が今後は大切になると思います。(笑)
なにしろもうすぐ40代ですから。
歯も治してることだし暴食にも気をつけてください。
できたら早くいいお嫁さんをもらってほしいです。(愛)