内なる機能と内なる神

みなさんこんにちは。
沖縄は台風が近づいていて
ただいま暴風が吹き荒れております。
風の音にびっくりしたり
暗雲立ち込める空に気分がつられそうになったりしながら
お掃除お洗濯をしているうちに
ふっと心は晴れてきました。
きっかけは、こわくないふり、不快じゃないふりをやめよう、と決めた時かもしれません。
こんな時は、びっくりしても、暗い気持ちがよぎってもいいんだ、
影響受けてはいけないなんてどうしてつっぱっていたんだろうと思ったとたん
ぱっと心身が軽くなってしまいました。
こんなことが内側で起こっているなんて
意識しなければ気がつきさえしないほどの些細な心の変化ですが
意識して、感じて、受け入れるという作業によって
平安に戻ることができます。
人間はほんの少しの外界の変化という刺激によって
内側では警戒サインが送られ
いつの間にか戦闘モード、もしくは防御モードのスイッチがオンになります。
すると葛藤(内なる戦い)が始まります。
本能vs.思考、みたいになり
感覚、知覚は置いてけぼりになる結果、ハートが閉じてしまいます。
イライラしやすい、と感じたら
この緊張状態を解いてあげればいいのです。
まずは今感じたがっていることを抑えるのをやめて
戦いを手放し(緩めて)感じてみる。
そして感じていることが真実かどうか、問いかけをします。
もし感じていることが勘違いなら
(過剰に危機を感じたり、プレッシャーを受けていたりしたら)
そうじゃないよ、大丈夫なんだよ、と
インナーチャイルド、または自分自身に話しかけてあげてください。
頼るべきは、本能(戦闘、防御)でなく
内なる光のほうだった、それに任せます、というところまで行ければ
あなたは自分自身のセラピストになれます。

幻想と愛

フィーリングを感じることがどうして重要か、というと
私たちは感じたことを無意識に処理してしまっているんです。
例えば、あの人なんだか不機嫌だな、という場面に出くわしたとき
やだな、とか、こわいな、とか、
もっと言葉にならない何かしらの抵抗を感じているはずです。
それで、なんかそばに寄らないことにしよう、と距離をとってみたり(逃げる)
こっちも不機嫌バリアを張って傷つかないようにしたり(戦う)
余裕がないから気づかない、というふりをしてみたり(無視する)
いろんなやり方で処理をします。
どれも、外敵が来たときに、本能的に身を守る反応です。
でもそれだけだと、なんとなく罪悪感みたいなものを感じるので
それに理由をつけてみたりします。
そしてなんとなく相手が加害者で自分は被害者という形になるような理由が見つかると
少し居心地がよくなったりします。
思考による理由探し、原因探し、みたいな感じです。
一見この中に多くのフィーリングを感じてるようですが
実はよくよく検証すると内なるフィーリングにはなるだけ触れないように処理しています。
やっているのは、本能的な反射と思考による正当化だけで
本当はそこに何を感じていたか、内側でどのようにエネルギーが動いたのかについては
ほとんど感じていないのです。
そうすると、私たち人間の営みというのはどうなるか、
常に外的な刺激と反射、思考での処理というループの繰り返しになります。
これでは本来の創造性、根源のエネルギー、真実の自己からは切り離されたままです。
あの人不機嫌そうなだぁ、というところから
内なる問いかけを始めることで
そのループから外れる動きが始まります。
それを目の当たりにした私は、何を感じているのか
それによって内なるエネルギーはどう動いたのか。
胸がちょっと縮こまりましたか、広がりましたか。
胃のあたりが重たくなりますか、爽快ですか。
背中が硬くなりましたが、のびのびとしましたか。
その結果、気分はどうでしょうか。
さらに、本当にそうなる必要が私にはありますか。
あの人は私を攻撃しましたか。
私は彼に攻撃を受けましたか。
ノーだとすれば
私は架空の敵と戦ったり逃げたり、無視したりしています。
私が戦っているのは私の中にあった、架空の敵です。
その敵を、たまたま、あのちょっと不機嫌な彼に投影している、ということなのです。
これが、世界は内なる世界の投影であるという意味です。
不機嫌な彼は、ただ、今気分が悪いのです。
彼に架空の敵を投影するのをやめて自由に、そのままにしてあげること
それがエゴの解体であり、愛です。

愛というもの

なんだかものすごく懐かしいような、
非常にすがすがしい天候の今日の沖縄です。
青春のような、新鮮な空気が漂っています。
報得川河口の我が家の前方は海のようにブルーです。
さて、先日もヒプノのセッションの中で
カウンセリングとご説明の時間に
「その・・愛ってなんなんでしょう」というご質問を受けました。
私はこの二元性を超えてあまねく偏在している光と同等のもの、という風に捉えています。
でもこの言葉をこの二元性の宇宙の中での定義や解説として一言では言えません。
それは定義を超えたものです。
けれども私は最近ではヒプノやレイキのセッションでする意識の仕組みのお話の中で
このことに関する私の見解をお話しています。
それはなぜかというと、人間の幸せというものを探求する上で
このお話は不可欠だと思うからです。
人間は心によって幸せを体験します。
その心が幸せ(平安)を体験するには
「愛を学ぶ」必要があります。
ということは、人間は地のまま、天然自然に、愛を学ぶのは難しいということです。
なんで?愛ってもっと自然なものじゃないの?と多くの方が思われるでしょう。
私だってそう思っていました。
天然自然で私たちが体験しているのは多くの場合
エゴが知覚している愛に似た感情です。
エゴがなぜ解体されなければならないかというと
エゴの次元にいる限り人は愛を学べないからなんです。
エゴは愛を別のものと勘違いしてしまうのです。
欲求とか、必要とか、所有とか、そういうものを相手に投影して
自我を満たそうというのが、エゴの考える愛です。
ほとんどの場合それは無意識のなかで実行されます。
これはエゴイストと呼ばれる人の特性ではありません。
清く正しい人、善人悪人にかかわらずすべての肉体に宿り
自動的にそのシナリオは人生に投影されていくのです。
そしてそのシナリオを演じている限り人は幸せにはならないんです。
エゴを解体するにはエゴの特性に気づき
自己の内面に向き合い(≒問いかけ)それに気づき、
それを手放す(≒赦す)と意図することです。
そしてその浄化を潜在意識の次元で行っていくことです。
ですから先達から光明を得る方法として瞑想が伝わっているのです。
ヒプノは二人でする瞑想です。
セッションは一致団結してこういった作業をすることだと私は考えます。
次元上昇とか、波動が高いとか、いろいろな言葉で言われていることは
実は、愛を知覚する次元へと自己を明け渡すことだと私は思います。

ミラーマジック!

「この世界の現象のすべては、自己の内面の投影である」
もしもひとこと、誰かに言葉の贈り物を差し上げるとすれば
私はこの言葉を贈りたい。
まことしやかな言葉、美しい言葉は数多くあれど
人生を生きる上でこんなに無敵の叡智を与えてくれる言葉はなかなかない。
この法則は、地獄に始まって、ほんものの天国の入り口にたどり着くまで
この二元性の宇宙を生きる間中
あらゆるサポートをしてくれる。
とても長いスパンで多次元的に役に立ってくれる頼もしい言葉だ。
エゴの解体、自己と他者の線引き、愛、そしてワンネス。
頭で理解しようとするほどワナにひっかかる。
けれども、この法則に則して世界を観てみれば
エゴが作り出している虚構のワナ、
他者の領域に入り込みコントロールしようと試み
失敗することで苦しむ図柄や
無意識が作る、一見無関係に見える自己と世界の関連性が
くっきりと見えてくる。
悪意ではなく、恐れという動機からそれは作られる。
エゴを解体せよ、というのはこのコントロールや無意識に気づき、手放すことだ。
自己と他者の境界線を明確にし、正すこと(あえて正すといいます)で
私たちは新たな境地へと連れて行かれる。
それは、ボーダーレス、バリアフリーの世界。
ワンネス。
その時人は、あるがままの自分として存在している。
この言葉を受け入れるということは
原因をすべて内側に求めることであり
外側への攻撃をすべて放棄することであり
外側との戦いをやめることであり
いっさいの責任を持つということあり
やがては
自己と向き合い
自己を受け入れ
自己を癒し
自己を赦し
自己を愛することへ導かれる。
そして
いっさいを受け入れ
いっさいを赦し
いっさいを手放し
いっさいを愛するという世界を実現する。
本当の平和は来る。