楽しむ、とは

沖縄へ来て、東京と圧倒的に違いを感じるのは
沖縄の方々が基本的に、仕事は生活のためであって
仕事のために生きているのではない、という姿勢でいらっしゃるところのように感じる。
たまたま伺ったお話なので、みんながそうということではないけれど
例えば沖縄の方は、転勤を命じられると
沖縄を出るくらいなら退職します、という方も多いそう。
本当に沖縄が大好きとおっしゃる方に良く出会うし
それだけではなくご先祖とお墓を守るために
沖縄を離れるわけにはいかないというご長男もいらっしゃる。
総じて仕事のために家庭を犠牲にするという空気は少ないと思う。
ご家庭の行事のためにはお仕事を休む、というのは普通の感覚のようです。
沖縄のご長寿の方や、この沖縄の愛される風土を作っているのは
こういった根本の精神があるためなんだろうなとつくづく感じる。
ですが一方で、お店や企業、公共の施設などでの対応などにびっくりすることも多い。
特にお食事するお店のサービスなど
あまりにずさん、と思うところもある。
お店や商品や、そこで働いている自分自身に愛や誇りがあれば
そうはならないだろうに、と思うような態度、たたずまいに思わず残念に感じてしまう。
例えば、今日のおすすめ料理、日替わり、となっているから
今日のは何ですか?と尋ねても「えーっと?」となったり
チーズ盛り合わせのチーズはなんですか?と尋ねても
なんか、丸いやつです、とか(笑)味より量、みたいな食堂なら愛嬌だけど
質と雰囲気を味わいたいようなお店がそうだったり。
あと、ボーイさんたちが3人ぐらいでお店の入り口の前に腰掛けたりして
だらだらしゃべってるとか
で、お店に入ってもオーダー取りにも来なかったり
呼ぼうと思ってもいなかったり
まだ店の外でしゃがんでたりとか!
沖縄値段とかでなくそこそこの値段のお料理といでたちのお店で
明らかにサービス料というものが介在しているはずなのに。
なんていうか、心意気とか志が感じられない場面が多いのです。
残念なのは、サービスって目に見えないけれど本当に人を感動させてくれたり
あったかい気持ちになったり、人を癒したりさえするものなのに
そのチャンスを生かしていないなーと思うところ。
プロフェッショナルってすごく素敵なのに、そういう気合があまりないんですね。
そういうプロフェッショナルって、決して金儲け精神ではできないことです。
なぜかというとプロフェッショナルであるためには絶対に哲学を体現しなくてはならなくて
それには自分という枠を壊して乗り越えるという体験と
そこから普遍性を掴み取り
その世界への愛と尊敬を持ち抱き
日々取り組む、鍛錬することが必須だからで
それは、魂の同意がないとなかなか取り組めるものではないからです。
ですから職業のプロフェッショナルは魂の修行のひとつの現れとも言えると思います。
ですから、プロフェッショナルである人は燃えているし輝いている。
そしてそのあり方に人は感動し、高い波動の影響を受けます。
素敵な場所で食事をする、一流のサービスを受けることは
そんな魂のきらめきを味わうことでもあると思うのです。
確かに人は仕事の奴隷ではありません。
そうではなく、魂を込めて仕事をすることで人生を豊かに輝かせ
楽しみの中に修行をすることに他ならないと思うのです。
魂を込めた仕事をして
その糧をいただいて日々を生きて
家族を養い命をいただく。
その循環は本当に幸せであり
その循環は決して己をすり減らすことはないと
私は思っています。

きてます

沖縄に来て初めて、台風とご対面です。
夕方には暴風域に入るそうで
夜に帰宅の予定なんだけど
その頃はどんなだろう。
今朝はさとうきびがみんな横になってしまっていた。
レタスとか、はっぱの野菜は大変だろうな。
10月に入ってこちらはすっかり秋です。
沖縄にはそんな言葉はないそうですが
秋の長雨、という感じ。
レイキのセッションをさせていただいていて気づきました。
結果にとらわれないことは大切だけれど
目の前に痛みに苦しむ人がいると
やっぱり必死にその痛みを癒したいと思うのが人情。
でも、やっぱりそうじゃないんだ、と再認識しました。
痛みとはその人の人生の現れだから
本当に大切なのはその人がそこからちゃんとメッセージを受け取ること。
受け取って学びが完了したら
その残像とともに手放すことを促す。
未消化のメッセージならそれと向き合うための気づきを促す。
重荷を軽くすれば、向き合う勇気もわいてくる。
理解に苦しむメッセージを読み解いていく。
理解は安心につながり心をひらけるのです。
人間にできるのはそういったこつこつした作業であり
またそれを自分が選択できるように望み、祈り、ゆだねること。
痛みを軽減してくれるのは神と本人の生命がする仕事。
痛み苦しむことは3次元の幻想ではあるけれど
そのことに罪悪感を持つことはないのだと私は思う。
確かに恨みの思いが病気を作ることはあるけれど
病気が必ずしも「悪い」行いの結果とは限らない。
それよりも自分の痛みや苦しみを認めて、受け入れて、取り組むことは尊い行いだと感じる。
それは分離したあなただけの苦しみではない。
全ての人が持ち合わせ、全ての人に可能性のある、全ての人に責任のある、
全ての人に影響のある、全ての人に関係のある、行い。
自分自身を癒すことは、世界を癒すこと。
世界を苦しみから救うことなのだと心から思っている。

本能

エゴ、というものを私たちは、なんとなくよくないもの、のように評価していて
早くそこから離れたいというような
なんとなく後ろめたいもののような捉え方をしている気がする。
人間はエゴと向き合い、解体しなければならないと私は思う。
そうでないと平安にならない。
結果人は幸せを学べない。
スピリチュアルの教えはおおむねそのように教えている。
ニュー・アースのように。
それで、神の使者
ではさらに、エゴどころじゃない、本能を超えよ、と言っている気がする。
本能というのは生命存続のために生物に備わった性質や知恵だと思うんだけど
それに任せると人間は、永遠に、攻撃を繰り返す。
神の使者ではこの地上やこの宇宙は幻想であるから
起こることに対して現実のように対処してはならないと言う。
そうすると、この世に現実味を与えてしまうから。
この世のすべてを赦し、聖霊にゆだねよ、と言う。
私たちはこの世に誕生し、この世での3次元の生存競争に戦い
心に傷をつける。
セラピーではこの傷を癒し
エゴに取り組んで心を育てなおして愛を知る。
真の愛と平和を生きるには
本能からも自由になる必要がある。
というか、生命が本当に永遠だとわかれば
私たちが本当に無限の存在だとわかれば
本能から自由になるはずだ。
そうなってくると本当に地球にもようやく
ワンネスのスピリット中心の世界=神の国がやってくる気がする。
神性と本能(潜在意識として?)を混同していることが結構あるような気がするけど
全く次元の違うものなんだな~と考察して思いました。

天職

少し前のことです。
主人とうちでゆんたく(だんらん)していて
どなたの話だったか「それは天職なんだね~」なんて言い合っていたんです。
それでふと「私の天職ってなんだか知ってる?」と主人に言ってみました。
なんて答えるんだろうな、と、あまり期待もしないでいると
(多分私がきもちがっかりするくらいの答えのような気がして^^)
主人は「知ってるよ。てんし」と言ったんです。
意表をつかれました。
だんなさんから天職、天使、と言ってもらえるって
かなりいいな、と思いました。
久々の更新なのにのろけっぽくてすみません。Ф